管理人の部屋


サイト管理人の諦然克惇です

管理人の中島です。東京・東銀座で法律事務所を開業しています。弁護士業の傍ら、法律ならぬ仏法を学び、弁論ならぬ弁道を追求しております。

かの Apple 創始者、故スティーヴ・ジョブズ氏もかつて禅を志したという、曹洞宗大本山永平寺での修行に参加し、管長禅師から「諦然克惇」という生前戒名を頂きました(ちなみに出家とは違います)。正式には「授戒会」という仏弟子になるための戒を受ける修行で、永平寺では毎年4月23日から29日まで7日間行われます。生前戒名や受戒会にご興味のある方は、下記をご覧ください。

また、仕事で四国に出張することが多いため、四国霊場八十八か所巡りを始めました。クルマでの遍路旅ですが、お遍路にご興味のある方は、下記をご覧ください。


私の理解する禅の悟りとは

 私達は普段、例えば「目の前にリンゴがあるから、リンゴが見えている」と思い込んでいます(リンゴの存在→リンゴの見え)。しかし真実は逆で、「リンゴが見えているから、目の前にリンゴがある」と「推測」しているに過ぎません(リンゴの見え→リンゴの存在)。同様に普段、「私が見ているから、リンゴが見えている」と信じ込んでいますが(私の存在→リンゴの見え)、やはり真実は逆で、「リンゴが見えているから、見ている私がいる」と「推測」しているに過ぎないのです(リンゴの見え→私の存在)。何故なら、人間は感覚器官(五感)を通じてしか情報を受け取ることができず、五感の及ばない世界は不可知なので、リンゴが見えている裏側に本当にリンゴが存在しているかどうかは知り得ないからです。ここで現実にあるといえるのは「リンゴが見えている」という意識のスクリーンに表れたイメージだけです。この脳内現象を「意識現象」といいます。つまり、リンゴの存在も、私の存在も、「リンゴが見えている」という唯一の現実から推測された「想像の産物」でしかないのです。そして、その意識現象には主と客の区別はありません。従って、私(主体)がリンゴ(客体)を見ている、という構図は成り立ちません。ゆえに禅では、この「主客未分」である意識現象、つまり誰のものでもない意識現象だけを真実とします。そして、そこから派生する一切の「推測」を、後から加えた思考=分析・識別(分別)による虚構として排除します。従って、あると思い込んでいるだけで私やリンゴという独立不変の実体はない(無我)、たまたま縁あって私やリンゴとして現象しているだけ(縁起)、もっといえば私やリンゴという名前をつけているだけで実は有るとも無いともいえない(空、有無中道)、ということになります。禅では、もともと見えるようにしか存在していないものを「あるがまま」に見ることを重視し、意識現象の原因や背後の法則などの仮説は一切認めません。禅語にいう「眼横鼻直」や「柳緑花紅」は、見えるままの現実に隠された理由などない、真実は常に現前している、ということを意味しています。

 ではなぜ、私達は「そもそも私とリンゴが先にあって、私がリンゴを見ている」かのように誤解しまうのでしょうか。それは成長するにつれ「客観視点」という架空の視点を身に着けてしまうからです。もともと私達は生まれつき「あるがまま」に見る視点しか持ち合わせていません。これを実存視点といいます。ところが、見えているものは他人にも同じように見えているようだ、あるいは、見えている他人と同型の私というものがあるらしい、という「推測」を何度も繰り返すうちに「見えている」→「見えているものはある」→「見ている私がいる」という確信に変わってしまうのです。こうして意識現象を超越した架空の「客観視点」でものごとを捉えることがむしろ常識になってくると、この「客観視点」が「主観」という虚像をも生じさせ、自分(内)と環境(外)の分別を始め、様々な分別を生み出す自我意識が現れます。それが結果的に苦を生じさせることにつながります。とすれば、苦を解決するためにはそのような架空の「客観視点」を捨て、もとの「あるがまま」の実存視点しか持ち合わせていない、昔の自分に戻ればよいことになります。

 このことに2500年前、人類で最初に気付いたのが釈尊です。「推測」の産物でしかない客観視された自作自演の「自己」を捨て、自分と環境との間には何の境界もないことに気付くのが「悟り」であって、そのための方法論が「禅」であることを、ここで釈尊の直説(人間ゴータマ・ブッダの言葉)を頼りに考証してみました。

 なお、もとより西琳寺ないし住職の公式見解ではなく、あくまで管理人個人の私見であることを予めお断りしておきます。


新解・十牛図

悟りへの過程を段階的に表したものとして古来有名な「十牛図」があります。ここでは牛が表しているものは道元禅師のいわれる「他己」ではないか、との前提で解釈しています。


禅詩

私なりに理解した、「禅語」が本来意味するところを、解説ではなく、あえて詩の形式にしてみました。どの「禅語」も、仏教(禅宗)の真髄を伝えていることに改めて気づかされます。