管理人の部屋


サイト管理人の諦然克惇です

西琳寺の檀家です。東京・東銀座で法律事務所を開業しています。弁護士業の傍ら、法律ならぬ仏法を学び、弁論ならぬ法話を聞いております。

かの Apple 創始者、故スティーヴ・ジョブズ氏もかつて禅を志したという、大本山永平寺の修行に参加し、曹洞宗で一番偉い管長大禅師から「諦然克惇」という生前戒名を授けられました(ちなみに出家とは違います)。正式には「授戒会」という仏弟子になるための戒を受ける修行で、永平寺では毎年4月23日から29日まで7日間行われます。生前戒名や受戒会にご興味のある方は、下記をご覧ください。


禅詩

私なりに理解した、「禅語」が本来意味するところを、解説ではなく、あえて詩の形式にしてみました。どの「禅語」も、仏教(禅宗)の神髄を伝えていることに改めて気づかされます。


新解・十牛図

悟りへの過程を段階的に表したものとして古来有名な「十牛図」がありますが、牛が表しているものは、自我意識のせいで見えなくなった「無我」の真理ではないか、と私は理解しています。


私の理解する悟りとは

お釈迦様が開かれた「悟り」とは何でしょうか。古来、在家・出家を問わず、この境地を求めて多くの先人達が修行してきました。私は「悟り」に興味を持ち、生ある間に到達したいと思い、菩提心(悟りを求める心)を発心しましたが、まだまだ道半ばです。悟りの瞬間については、ものの見え方が全く変わり、タガが外れたような究極の自由を感じ、とても幸福な気分に包まれる、ということで共通しているようです。しかも「悟り」は求めて得られるものではなく、眠ろうとすればするほど眠れなくなる睡眠と同じで、悟ろうとすればするほど遠ざかるものであり、条件を整えて、わが身をまかせ、悟りの方からやってくるのを待つしかないもののようです(仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて)。まずは正伝の仏法の教えを理解しようと、あれこれと情報収集していますが、「悟り」とは体感であり、言葉で定義できるものではなく(不立文字)、教えることもできず(教外別伝)、坐禅等の実践を通じて体得するしかないとのこと。ただ私は、教えの理解

(知得)と禅の実践体験(体得)とは車の両輪であり、いずれも悟りへの道には不可欠であると考えています。職業病か、どうしても私は頭で理解しようとしてしまい、実践に欠けるきらいはありますが、現在の到達点として、私が理解する「悟り」とは何かについて3つの仮説を立ててみました。


宗教と殺生その壱ー太地町イルカ漁問題に思う

和歌山県太地町で古来より行われているイルカ追い込み漁について、捕鯨問題と同様に、未開・残虐であるとして、主としてキリスト教圏の人々より強い非難が続いています。過激な環境保護団体シーシェパードは入国を禁止され、ここで行われていることは「北朝鮮」と一緒という強烈な声明まで出しています。これに対し、和歌山県は伝統文化擁護の声明を発表し、また中立的立場で和解の糸口を探る試みも多々あります。しかし、私は、この問題の根底には、キリスト教圏と仏教圏の宗教的価値観の違いがあり、これを互いに認め合うことが相互理解の第一歩となるのではないかと考えています。もちろん、現代日本人の多くは、本来の意味で仏教に帰依しているわけではありませんが、仏教伝来いらい1500年の歴史の中で、仏教的価値観が日本人のDNAに刻み込まれていることは否定できないように思います。その最たるものが「人間を含む全ての命は平等であり、他の生物の命の恵みを頂いて自分たちの命を維持していることに感謝する」という意識でしょう。これに対し、西洋のキリスト教的価値観の下では「人間は神が創造した特別な存在であり、人間に食べられるために神が創造してくださった牛豚は別として、人間に近い知能の高等生物(クジラやイルカ)を殺して食べるなどもってのほか」ということになります。そのため、すべての命は平等であると考える日本人にとっては「なぜクジラやイルカはダメで、牛や豚は殺して食べてもよいのか、おおいに矛盾しているではないか」という当然の疑問となり、西洋人にとっては「そもそもクジライルカと牛豚を同列に扱うこと自体がおかしい」ということになって、議論がかみ合いません。キリスト教の熱心な信者は、人間がサルから進化したという事実さえ頑なに否定します。彼らにとって人間は神が創造した特別な存在ですが、この人間優位の考え方は、仏教的価値観においては「人間の思い上がり」と映ります。もともと人間は他の命を頂かなくては生命を維持できない罪深い存在であり、感謝して頂く命にクジライルカも牛豚も差別はないはずだと感じるからです。しかも、日本人には、針供養などに見られるように、生物のみならず世話になった道具を含め万物に報恩と感謝の念を抱くというアニミズム的な考え方があります。いくら伝統文化だとか、はるか昔から食べてきたとか、日本以外にもクジラやイルカを捕っている国があるじゃないか、という主張をしても、キリスト教圏の人々に対しては説得力はありません。彼らが根ざしているキリスト教的価値観を理解するとともに、日本人がいかに「おクジラさま」の尊厳を守り、感謝し、供養してきたかを理解してもらうことの方が、よほど近道なのではないかと思います。

宗教と殺生その弐-有害鳥獣捕獲に思う

私は、県の許可と町役場からの委託により、ボランティアでイノシシやキョン(外来の小型鹿)の捕獲をしています。イノシシやキョンは千葉県の房総地域で大繁殖しており、農作物を食い荒らすので「有害獣」として駆除するというわけです。各自治体が補助金を出して、猟友会や狩猟免許を持った個人に駆除を委託しています。捕獲→と殺→解体→処分のプロセスをへて、最終的には食肉となったり焼却されたりします。要するに駆除とは減らすために殺すことです。人間に対して悪さをするから殺すのです。誠に人間優位の考え方です。仏教の見地からすると、そもそも不殺生戒に反するのみならず、命に上下はないのに「有害」という人間側の一方的な価値観の押し付けであり、人間より先に山に定住しているイノシシ側からすれば後から入ってきた人間の方こそ「有害」、ということになるでしょう(キョンは外来生物です)。仏教では、このような人間優位の考え方を排し、本来、万物に価値の上下差別はないことを教えます。では、なぜ仏弟子である私が有害獣駆除という名の殺生をするのか。それは食べることで命をつなぐためです。私は菜食主義者でありません。肉も魚も食べます。出家修行僧も、肉食を一切禁じられているわけではありません。自分のために殺されたのではない、余り物の肉であれば、布施として頂いたとしても不殺生戒に反しないとされているようです。ただ、スーパーに並んでいる牛肉も豚肉も、だれかがどこかで命を奪った動物の死体の一部であることに変わりはありません。これを平気で食べている以上、それは動物の殺生そのものを肯定することと同じです。私は、仏弟子でありながら、自らの命のために他の命を頂くことを避けられないのであり、それは言い逃れの出来ない事実です。ところが世の中には、菜食主義者でもないのに、動物愛護や子供の教育を名目に、有害獣駆除活動を批判する人がおられます。これは誠に矛盾した考え方です。ハンバーグや刺身を食べるという行為は、だれかがどこかで動物や魚の命を奪うという行為がなければ成り立ちません。牛豚は最初からハンバーグの形をしている、魚は切り身のまま泳いでいる、と子供に教える人はいないでしょう。人間は、自らの命をつなぐために、他の命を奪って生きていかざるを得ない、もともと罪深い存在なのです。食物連鎖の頂点にいる人間こそ謙虚でなければなりません。その人間の罪を少なくとも自覚し、他の命に感謝して、謙虚に生きていくべきではないでしょうか。