2021/12/06
 今回は、本堂が暖房が無いため、離れにて少人数で行いました。なるべく 言葉を使わず、僧堂に近い雰囲気で経行を入れて2柱坐りました。その後、質疑応答を行いました。来年の参禅会の日程を坐禅会の欄に公開しますので、ご希望の方は事前に連絡ください。
2021/12/01
なぜ坐るのか...
2021/11/03
10/6は11名で修行しました。今回は、前回の話の補足として、お釈迦様の説かれた四苦の苦は、私たちが一般的に考えている苦しみという捉え方をするのではなく、自分の努力では改善できない事であり、思い通りにならない事実であるという話をいたしました。
2021/09/08
9/6に参禅者11名で修行しました。今回は、坐禅中の思いと日常生活との関係についてお話ししました。...
2021/07/17
    ありのままの自分...
2021/06/12
6/8は9名の参禅で、知恵と智慧の違いについてお話ししました。  般若心経の般若は智慧という意味です。知恵と書きますと、一般常識的な頭が良い、知識が豊富という意味になりますが、仏教で説かれる智慧は、頭が良い悪いという意味ではなく、真実を正確に見ることができる力のことを意味します。...
2021/05/14
5/10の参禅会は、初参加の2名を含む11名で修行しました。前回、ご質問のあった六祖慧能禅師と神秀和尚の違いを説明した要点を記します。 神秀和尚は心を鏡に例え、心を鏡のようにきれいに保ち、常に煩悩や欲望(塵や埃)がつかないよう、鏡を磨くようにふき取っていくのが修行であり、悟りへの道だと示しています。一般常識からみれば模範的な教えです。...
2021/04/10
 坐禅はスポーツと類似するところがあります。いずれも理論は必要ですが、その理論を実践してはじめて具現化できるという事です。そして、過去や未来に対する思いに執着せず、今この時に気持ちを向けている事が大切です。例えば、水泳の競技中に他の考え事をして泳いでいる人はいないと思います。ただひたすらに全身を動かしていると思いますが、坐禅もその様でなければなりません。しかし、水泳の理論を理解しても、日々実践しなければ上達しないように、坐禅も日々の実践がなければ正しく坐れません。  また、相違点は、スポーツは明確な目標が立てやすいが、坐禅は目標を持ってはならないと示されております。なぜならば、目標とは自分の思いを満たそうとする思いであり、坐禅は思いの起こる前の世界に帰ることだからです。ですから、目標は立てようがないし、もし目標に近づいたと思ったなら、それは大きな勘違いです。また坐禅の意義を聞きたがる人がいますが、意義がなければやれないという思いが、すでに坐禅の意義から外れているという事です。坐禅の意義は、常識的な意義ではなく、只管打坐が出来るようになることです。そうすれば、意義、やりがいは迷いの元であり、意義や思いは元来、無いところから心が作りだしていると自覚することです。もちろん、それらを否定することではありません。次回は5/10の予定です。
2021/01/21
緊急事態宣言のため、2/1の坐禅会は中止いたします。次回は4/5の予定です。お大事にしてください。
2020/12/24
 11月坐禅会の法話を記載します。当寺の参禅者が、以前、臨済宗のお寺に参禅され公案を受けられたとのことで、その内容を記します。臨済宗の御住職が寺の庭にある大きな石を見るよう指示され、その直後に目の前の障子を閉められ、「今見えていた庭石はどこに行ったのか?」という公案だったそうです。一般的な見解から言えば、障子を閉めても、向こう側に庭石はあるに決まっていると言いたくなるのが当たり前ですが、皆様はどう答えられますでしょうか?  同類の公案に、百丈野鴨という公案があります。百丈禅師が見性された機縁を記したものですが、百丈禅師が師匠の馬祖禅師と行脚中、草むらから大きな音がして野鴨の群れが飛び立ちました。馬祖禅師は「あの鴨の群れはどこに行ったのか?」と問答をかけます。百丈禅師は見性の機運が熟していたので、「野鴨はただ飛んでいったのみです。」と答えました。すると馬祖禅師は百丈禅師の鼻を思いきりひねって、「ここに野鴨はいるではないか」と諭し、百丈禅師は痛みと共に見性されたという話です。庭石も野鴨の公案も、私たちの日常の思考を端的に示しています。思考は過去に執着し今の事実を曇らせます。あの時、こんなことを言われたから、あいつが憎いなど・・・。憎言は今、あるわけではないのに。

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