2021/09/08
9/6に参禅者11名で修行しました。今回は、坐禅中の思いと日常生活との関係についてお話ししました。...
2021/07/17
前回、慧能禅師の、心には塵や埃はないという話をしたところ、参禅者から、では今のありのままの自分で良いのですね?という鋭い質問を受けました。これは坐禅をなぜ行うのかという質問と関連する問いです。坐禅は一切の見返りを求めずに只坐すると説かれていますが、坐禅に効能がないと説いているのは、一般常識で考えられるような効果効能がないという事で、自己の真相を知るという大きな効能はあります。自己の真相を自覚できると、欲望や執着を無理に抑えようとする事ではなく、心は自然に整っている事実に気付くことができます。坐禅に見返りはないと説かれているのは、人は自分の考えで、心をどうにかしようとする傾向が強いので、それを諫める祖師方の思いやりだと思います。  坐禅を体験された人の思いは大きく分けて三つあるように思います。一つ目は、坐禅に興味があるので軽い気持ちで坐ってみたら、ただ足が痛いだけだった、体が辛くて懲りてしまうという人が大多数だと思います。二つ目は、初めて坐禅した時に、安らぎを感じ、二度目以降もそれ以上の事を求めてしまい、何かしらの効能を期待して数回坐ってみたが、あまり効能がないと自身の考えで判断して、やめてしまう人。三つ目は、坐禅を継続できる人。このように分類できるように思いますが、坐禅が長続きしないのは日常生活のほとんどが、見返りや、やりがいを求めて行動しているわけですが、坐禅はそれと正反対の行為だからです。日常では、やりがいや効能を求める心は必要ですが、その思いが強すぎると、思い通りになった時は気持ちが高揚し、そうでないときは失望感が大きくなり、時には自分を見失う事にもなります。坐禅は自己を忘れるなりと説かれていますが、自己を忘れるとは、現前の現象だけがあるという事で、前述した自分を見失う事とは全く意味が違うのでご注意いただきたいと思います。
2021/06/12
6/8は9名の参禅で、知恵と智慧の違いについてお話ししました。  般若心経の般若は智慧という意味です。知恵と書きますと、一般常識的な頭が良い、知識が豊富という意味になりますが、仏教で説かれる智慧は、頭が良い悪いという意味ではなく、真実を正確に見ることができる力のことを意味します。...
2021/05/14
5/10の参禅会は、初参加の2名を含む11名で修行しました。前回、ご質問のあった六祖慧能禅師と神秀和尚の違いを説明した要点を記します。 神秀和尚は心を鏡に例え、心を鏡のようにきれいに保ち、常に煩悩や欲望(塵や埃)がつかないよう、鏡を磨くようにふき取っていくのが修行であり、悟りへの道だと示しています。一般常識からみれば模範的な教えです。...
2021/04/10
 坐禅はスポーツと類似するところがあります。いずれも理論は必要ですが、その理論を実践してはじめて具現化できるという事です。そして、過去や未来に対する思いに執着せず、今この時に気持ちを向けている事が大切です。例えば、水泳の競技中に他の考え事をして泳いでいる人はいないと思います。ただひたすらに全身を動かしていると思いますが、坐禅もその様でなければなりません。しかし、水泳の理論を理解しても、日々実践しなければ上達しないように、坐禅も日々の実践がなければ正しく坐れません。 また、相違点は、スポーツは明確な目標が立てやすいが、坐禅は目標を持ってはならないと示されております。なぜならば、目標とは自分の思いを満たそうとする思いであり、坐禅は思いの起こる前の世界に帰ることだからです。ですから、目標は立てようがないし、もし目標に近づいたと思ったなら、それは大きな勘違いです。また坐禅の意義を聞きたがる人がいますが、意義がなければやれないという思いが、すでに坐禅の意義から外れているという事です。坐禅の意義は、常識的な意義ではなく、只管打坐が出来るようになることです。そうすれば、意義、やりがいは迷いの元であり、意義や思いは元来、無いところから心が作りだしていると自覚することです。もちろん、それらを否定することではありません。次回は5/10の予定です。
2021/01/21
緊急事態宣言のため、2/1の坐禅会は中止いたします。次回は4/5の予定です。お大事にしてください。
2020/12/24
 11月坐禅会の法話を記載します。当寺の参禅者が、以前、臨済宗のお寺に参禅され公案を受けられたとのことで、その内容を記します。臨済宗の御住職が寺の庭にある大きな石を見るよう指示され、その直後に目の前の障子を閉められ、「今見えていた庭石はどこに行ったのか?」という公案だったそうです。一般的な見解から言えば、障子を閉めても、向こう側に庭石はあるに決まっていると言いたくなるのが当たり前ですが、皆様はどう答えられますでしょうか?  同類の公案に、百丈野鴨という公案があります。百丈禅師が見性された機縁を記したものですが、百丈禅師が師匠の馬祖禅師と行脚中、草むらから大きな音がして野鴨の群れが飛び立ちました。馬祖禅師は「あの鴨の群れはどこに行ったのか?」と問答をかけます。百丈禅師は見性の機運が熟していたので、「野鴨はただ飛んでいったのみです。」と答えました。すると馬祖禅師は百丈禅師の鼻を思いきりひねって、「ここに野鴨はいるではないか」と諭し、百丈禅師は痛みと共に見性されたという話です。庭石も野鴨の公案も、私たちの日常の思考を端的に示しています。思考は過去に執着し今の事実を曇らせます。あの時、こんなことを言われたから、あいつが憎いなど・・・。憎言は今、あるわけではないのに。
2020/11/25
11/24の坐禅会は3人の初参加を含む11人で行いました。坐禅の後、参禅者三人の感想を頂きましたので記します。口頭で聞いたものなので、多少の違いはあるとは思いますが、ご容赦ください。 A様:事前に坐禅中は悩みや考え事が普段以上に浮かんでくると聞いていたが、ほとんど考え、思いが邪魔にならず過ごせた。...
2020/11/03
        乾屎橛(かんしけつ)...
2020/10/05
       私とは何者か...

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