01日 5月 2019
坐禅は見える、聞こえる、感じることだけに徹するというのが大切なことですが、私たちは長年染みついた考えるという習慣によって、ただ見えている、ただ聞こえているという事実だけに留まれないので、坐禅では苦労するわけです。...
15日 4月 2019
法話とは仏法の話のことで、お釈迦様の教えを聞く縁です。法話を聞くときは、頭を空っぽにして聞かなければならないという教えがあります。なぜなら、(今日の法話は良かった。感動した。)と感じる場合、自分の考えや信念と法話が合致したところだけを覚えていて、納得できないところはスルーしていることが多いからです。...
18日 2月 2019
 坐禅とは、元来無我であった事実に気付くための実践修行です。それを実感するには、悩み苦しみは心の働きであり、心とはつかむことのできないその時々の様子だと自覚することです。私たちは無意識のうちに、朝起きてから夜就寝するまで、常に頭を働かせ考え事をしています。考えることは心の作用ですが、考えることが、喜怒哀楽の原因となります。ですから考える以前の状態(喜怒哀楽の起こる以前)を体感するのが坐禅修行です。考える以前の状態とは、ただ聞こえる、ただ見える、ただ感じるという事実であり、そこに徹することによって、喜怒哀楽は考えによって起きていることに気付くことです。ですが、私たちは考えるという体に染みついた習慣から抜け出せないために、坐禅では苦労する人が多いのではないかと思います。  考える以前の事実を手早く体験できるのが苦行だと思います。例えば、滝行は水圧と冷たい水に打たれ、考える暇がないほど水圧の痛みや寒さを全身で感じます。滝行が終わった後に、心がすっきりしたと感じる人が多いのは、考えが自然に止んで事実だけになっていたからだと思います。ですが、滝行や苦行は手軽にできることではないので、思い立ったらすぐに実践できる坐禅をお勧めします。
26日 1月 2019
自我意識の起こるのは、思いが私を意識した時に沸き起こります。喜びや充実感に包まれているときは、ほとんど自我を意識することはなく、プライドを傷つけられたとき、怒りが沸いたときに自我を意識するように思います。例えば、スポーツ観戦で応援しているチームが優勝して、喜びで興奮しているときは、私が感動していると意識せずに興奮しています。その興奮状態に水を差されると、自我を意識し不快な気持ちになります。また、嫌いな上司にお茶を入れるよう頼まれたとき、なぜ私があなたのためにやらなければならないのか?このなぜ私がという思いが自我意識の最たるものです。ですが、実際にお茶を入れる行為は、急須に茶を入れる、お湯を注ぐ、茶碗につぐ、という行為そのものには私が入り込む余地がありません。あるのは、その行為中になぜ私が?というイライラしている思いがあるだけです。自分がお茶を飲みたくてお茶を入れるときには、なぜ私がという思いは起きないはずです。私と相手を意識した時に、はじめて自我意識が生じ、不快な気持ちになります。この自我意識と心の状態を日々参究いただきたいと思います。
04日 12月 2018
当初予定しておりました12月21日の坐禅会は会場の都合により延期させていただきます。次回は2019年1月25日の16時から18時まで中島様宅にて行いますので、参加希望な方は事前にご連絡お願い致します。合掌
05日 11月 2018
  前回の坐禅会で、自我意識とは、この身体を私のものと思い込んでいる意識のことで、喜怒哀楽の原因である。それに対しお釈迦様は、この身体は私のものではなく、宇宙的存在であると気付かれました。これを無我と呼びますが、一般的にはこの身体が私のものではないと言われれば納得できないと思います。 ...
09日 10月 2018
 私たちは、この身体を私のものと思い込んで、身体を自分の思い通りにしたいと欲して、思い通りにならないときに悩み、苦しみます。これを自我意識と呼びますが、この身体は私のものではないと気付けば、悩み苦しみは激減します。この身体は世界から独立して存在しているわけではなく、私という思いの所有物ではありません。これを無我と呼びますが、私たちは、誰でも元来無我であったという事実を実感するのが坐禅です。この身体が無我である事実を理屈で説明しますと、私とは何かということを自問自答してみて下さい。私とは、生まれてから今までの生きてきた事実とその記憶の集大成といえます。しかし、今まで生きてきた事実を全て正確に思い出すことは不可能です。数十年の人生の中で思い出せるのは、印象深い過去の経験であって、それを正確に思い出しても、それはあくまで思いの世界で、事実ではありません。では、昨日の出来事はどうであったか?一時間前の私の様子は?というように突き詰めていきますと、それを考えている主体は誰なのかということです。その時、その時の事実があるだけです。事実には喜怒哀楽はなく、後から思いによって喜怒哀楽が起こるのです。日常生活の中でも、この身体の様子を参究することをお勧めします。
04日 9月 2018
     坐禅とは習禅に非ず...
02日 8月 2018
 禅語に前後際断という教えがあります。前(未来)と後(過去)を断ち切って今に徹するということですが、過去に起こった事や未来に起こるであろうことは全て想像の世界であり、事実は今この瞬間だけという意味です。この教えの受け取り方を間違えますと、今さえ良ければよい、過去の反省や未来の計画を立てる必要はないということになりますが、そうではありません。この身は両親や先祖から受け継いだ有り難い存在であり、思いや考えに関係なく、この身を生かそうとしています。 この身を私のものと勘違いしている思いを自我意識と呼びますが、この身で自分の思い通りにできるのは、手足や口、目、舌、肛門の動きぐらいです。内臓全般の動きは制御出来ませんし、老化を止めることも不可能です。自由に出来ることが少ないこの身を、思いで支配できると勘違いしているのが、自我意識です。 以前に、入水自殺未遂をした人の話を聞いたのですが、人間関係や仕事に疲れて、あれだけ死にたいと思っていたのに、飛び込んだ瞬間にその思いは完全に消えて、只々必死にもがいていた。という話です。 只もがくという行為は、思い、考えを超えた非思量の行為です。この身が無我なる存在である証です。この身を殺したいと思ったら、殺したいという思いを殺してください。身体はこの身を生かそうと必死なのです。
11日 6月 2018
 我慢という言葉は一般的にはこらえるとか、耐え忍ぶという良い意味に解釈されていますが、仏教では自分の考えや信念に固執するという意味で、それを戒めるように説いています。我慢を戒めるために同事という教えがあります。同事とは本来、自分という実体は存在せず、全てが一つであるという、悟りの境地を示していますが、私達凡人に説いているのは、相手の立場に立ち、相手の心と自分の心を同じくしていくことです。  同事行をするにあたり、我慢(自分の考えに固執している)があると、相手の気持ちに立つことはできません。自分の考えに固執していると相手との違いや批判ばかりが見えてきてしまうからです。同事行をするには、自分の考えや信念から離れて、相手の立場に立って相手を理解しようとすることです。それでも私達は相手の気持ちを完全に理解することは不可能であり、わかったつもりにしかなれないということです。わかったつもりにしかなれないからこそ、相手を理解しようと心掛けて、相手の立場に立つ努力が必要です。私が自分のことを大切だと思っているということは、他の人々も同じように自分のことを大切だと思っているはずです。お互いが大切な命を生きていると気付けば、いじめや犯罪などは起こりようがないのです。自他同事の心で精進しましょう。

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