04日 12月 2018
当初予定しておりました12月21日の坐禅会は会場の都合により延期させていただきます。次回は2019年1月25日の16時から18時まで中島様宅にて行いますので、参加希望な方は事前にご連絡お願い致します。合掌
05日 11月 2018
  前回の坐禅会で、自我意識とは、この身体を私のものと思い込んでいる意識のことで、喜怒哀楽の原因である。それに対しお釈迦様は、この身体は私のものではなく、宇宙的存在であると気付かれました。これを無我と呼びますが、一般的にはこの身体が私のものではないと言われれば納得できないと思います。 ...
09日 10月 2018
 私たちは、この身体を私のものと思い込んで、身体を自分の思い通りにしたいと欲して、思い通りにならないときに悩み、苦しみます。これを自我意識と呼びますが、この身体は私のものではないと気付けば、悩み苦しみは激減します。この身体は世界から独立して存在しているわけではなく、私という思いの所有物ではありません。これを無我と呼びますが、私たちは、誰でも元来無我であったという事実を実感するのが坐禅です。この身体が無我である事実を理屈で説明しますと、私とは何かということを自問自答してみて下さい。私とは、生まれてから今までの生きてきた事実とその記憶の集大成といえます。しかし、今まで生きてきた事実を全て正確に思い出すことは不可能です。数十年の人生の中で思い出せるのは、印象深い過去の経験であって、それを正確に思い出しても、それはあくまで思いの世界で、事実ではありません。では、昨日の出来事はどうであったか?一時間前の私の様子は?というように突き詰めていきますと、それを考えている主体は誰なのかということです。その時、その時の事実があるだけです。事実には喜怒哀楽はなく、後から思いによって喜怒哀楽が起こるのです。日常生活の中でも、この身体の様子を参究することをお勧めします。
04日 9月 2018
     坐禅とは習禅に非ず...
02日 8月 2018
 禅語に前後際断という教えがあります。前(未来)と後(過去)を断ち切って今に徹するということですが、過去に起こった事や未来に起こるであろうことは全て想像の世界であり、事実は今この瞬間だけという意味です。この教えの受け取り方を間違えますと、今さえ良ければよい、過去の反省や未来の計画を立てる必要はないということになりますが、そうではありません。この身は両親や先祖から受け継いだ有り難い存在であり、思いや考えに関係なく、この身を生かそうとしています。 この身を私のものと勘違いしている思いを自我意識と呼びますが、この身で自分の思い通りにできるのは、手足や口、目、舌、肛門の動きぐらいです。内臓全般の動きは制御出来ませんし、老化を止めることも不可能です。自由に出来ることが少ないこの身を、思いで支配できると勘違いしているのが、自我意識です。 以前に、入水自殺未遂をした人の話を聞いたのですが、人間関係や仕事に疲れて、あれだけ死にたいと思っていたのに、飛び込んだ瞬間にその思いは完全に消えて、只々必死にもがいていた。という話です。 只もがくという行為は、思い、考えを超えた非思量の行為です。この身が無我なる存在である証です。この身を殺したいと思ったら、殺したいという思いを殺してください。身体はこの身を生かそうと必死なのです。
11日 6月 2018
 我慢という言葉は一般的にはこらえるとか、耐え忍ぶという良い意味に解釈されていますが、仏教では自分の考えや信念に固執するという意味で、それを戒めるように説いています。我慢を戒めるために同事という教えがあります。同事とは本来、自分という実体は存在せず、全てが一つであるという、悟りの境地を示していますが、私達凡人に説いているのは、相手の立場に立ち、相手の心と自分の心を同じくしていくことです。  同事行をするにあたり、我慢(自分の考えに固執している)があると、相手の気持ちに立つことはできません。自分の考えに固執していると相手との違いや批判ばかりが見えてきてしまうからです。同事行をするには、自分の考えや信念から離れて、相手の立場に立って相手を理解しようとすることです。それでも私達は相手の気持ちを完全に理解することは不可能であり、わかったつもりにしかなれないということです。わかったつもりにしかなれないからこそ、相手を理解しようと心掛けて、相手の立場に立つ努力が必要です。私が自分のことを大切だと思っているということは、他の人々も同じように自分のことを大切だと思っているはずです。お互いが大切な命を生きていると気付けば、いじめや犯罪などは起こりようがないのです。自他同事の心で精進しましょう。
15日 3月 2018
以前に参拝者から、なぜ人は生きるのか?という質問を受けました。なぜ生きるのかという問いは、哲学や道徳の思想から言えば、幸せになるためと答えるのではないでしょうか。では幸せとは何かと考えると、一般的には、財産があって、やりがいのある仕事をして、円満な家庭を築いて健康に過ごすことが幸せの定義のように思われていますが、これらの思想はあくまで考えや思いの世界であって、実物ではありません。思いや考えは捕まえることができないその時その時の状態にすぎないのです。  悩みや怒りはすべて自分の心が作り出しています。その心は一瞬一瞬変わり続けます。例えば今、怒りを感じてもその怒りは一定ではなく、いつかは消え去ります。また、怒りがあるとわかるのは、怒りがない状態があったからこそ、認識することができるのです。   ですから、なぜ生きるかを思想で解決しようとしても、絶対に完全な答えは得られません。考えや思い、感情は前述したように一瞬一瞬変わり続けるからです。思想と事実の違いをはっきりさせることが本当の安心につながります。それを体現するのが坐禅です。
23日 12月 2017
坐禅用心記に、(不思量底を思量せよ。不思量いかんが思量せん、非思量これすなわち坐禅の要術なり)と記されております。...
23日 9月 2017
 9/24の4度目の坐禅会では、初参加のカナダ人の御夫婦を含め9人の参加者があり、20分の坐禅を2柱修行しました。今回の提唱では般若心経の一節「受想行識」についてお話ししました。...
19日 6月 2017
坐禅は形や作法は大切ですが、最も大切なのは坐禅中の心の持ち方だと思います。私たちの日常の生活では、食事をしながらテレビを見る、話をする、明日のことを考えるなど、今おこっている出来事や今の状態に心が向いていません。日常忙しく活動していますと、自己の心をしっかりと見つめる事が中々できません。...

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