2024/11/01
私たちは、生の終わりが死で、その中間が人生だと思い込んでいます。人生を直線に表すと、左端が誕生で右端が死で、その間が生存期間と考えます。しかし、時間を線で表すことは思考の世界であり、事実の世界ではありません。本来、時間そのものを線で表すことは不可能であり、生命と時間の働きに、働いた痕跡はありませんし、それを捕まえることもできません。生命や時間に前も後もありませんが、働いた痕跡を思考し、前後に並べれば、前後の時間や人生の歴史があるように思えるだけです。ですが、それはあくまでも影の世界であり、本当の生命や時間には前後はなく、ただ持続する今があるだけです。  過去に生きるという言葉を聞きますが、私たちに過去を生きることはできません。過去を思考している今この時の思いということです。人は今この時から離れることは不可能であり、生命と時間とは今この時だけです。そこが明確になると、今とは説明のできない世界であり、生まれることも、死を迎えることのない不生不滅の世界です。私たちはこの大事を自覚する、しないに関わらず、今この時を生きる以外に道はありません。見えた、聞こえたというのは、生命のはたらいた跡を説明していることで、跡には生命の真相はありません。私たちは生命の痕跡しか見ていませんが、今この時に徹するのが坐禅です。
2024/09/23
西琳寺の本堂は庭の少し奥にあり、駐車場は本堂の脇にあります。先日、お寺で33回忌を行ったA様は、いつも車でお参りに来られているのですが、法事が終わった後、庭を歩いてごらんになって「立派な池を最近作られたのですか」と聞かれました。私が「この池は30年ほど前に、川の上流から水を引いて作ったのですが、気付きませんでしたか?」と申し上げたところ、びっくりされていました。  この話は、人が認識できないものは問題にならないという禅の風光を的確に示したものといえます。池があるという事実が先にあり、それを認識するのは必ず後になります。そして認識してはじめて問題が生じ、池がきれいだ、汚いという喜怒哀楽が生まれるわけです。A様が30年近く気付かなかった池を初めて認識した時に、素晴らしい池だという思いが生まれたという事です。これは日常生活でもよくあることで、毎日通る道を、いつも同じ道と私たちは考えますが、道や景色は移り変わると同時に、私たちの認識もその時々の様相です。そこに気付けば、常に初めての道を通っているといえます。一瞬一瞬が正念場とはそういう意味です。
2024/06/21
 6/4は14名の参禅者で2柱坐り、無我という教義について以下のように法話をしました。...
2024/05/10
     春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて涼しかりけり...
2023/11/25
2024年の参禅会の日程を坐禅会の欄に更新いたしました。
2023/11/25
洞山了介禅師が悟りを開かれたときに、過水の偈という言葉をお示しになりました。これは、洞山禅師が川を渡っている時に、水に映った自分の姿を見て大事を了得した時の心境を表現しています。水に映っているのは確かに自分であるが、自分そのものではない。今までは、自分そのものではなく、影のほうを相手にしていたと、はっきりと了得したという事です。...
2023/10/09
曹洞宗の宗祖、洞山良价禅師の著書とされる、宝鏡三昧という経典の一節を解説いたしました。赤字が原文で、(  )が和訳です。 世の嬰児の五相完具するがごとし。 (仏法に通じる生活とは、赤子に大人が備わっている、起きる、立つ、来る、去る、言語の5つが備わっているようなものである。) 不去不来、不起不住、婆婆和和、有句無句、ついにものを得ず。...
2023/09/07
 自死願望のある人の原因は様々ですが、自分が人に必要とされていない、存在意義がないと思い込むことや、自分が常につらく苦しい状態にあるという思い込みから、生きているのがつらいという連想に至ってしまう事と思います。...
2023/06/06
 私たちは文明の発達によって世界中の出来事や様子を知ることが出来るので、昔の人に比べて、広い世界に住んでいると考えます。しかし、今も昔の人も、私が生きている世界はこの身体のみです。...
2023/05/06
 坐禅中の気付きについて  坐禅中の過ごし方について、思いが出てきたらその様子に気付いて下さい。気付くとその思いは途切れます。という事を頻繁にお話ししておりますが、その気付くということ自体も思いではないかという質問がありました。...

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