04日 2月 2020
正法眼蔵に三界唯一心が説かれていますが、三界唯一心とは、世界は心の作用であるという事です。その心には実体がありませんが、過去に思いをはせ、今と比較する、他者と私を比較することで、悩み、苦悩が生じます。...
19日 12月 2019
 正思について  お釈迦様が初転法輪(悟りを開かれた後の初めての説法)で、説かれたのが八正道です。八正道とは正しい道理という意味で、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の事です。その内の正思、正念について記します。...
09日 12月 2019
 身心脱落という禅語がありますが、これは道元禅師が中国の如浄禅師の下で坐禅中に悟りを開かれた言葉として伝わっています。身心脱落とは身体と心のわだかまりが抜け落ちて自由自在な心境になったという意味です。道元行状記に、道元禅師が恩礼の挨拶に行き、「身心脱落しました。」と告げると、如浄禅師に「脱落の身心だ」と言われ、さらに大悟したと記されております。脱落していない不自由な身心が、脱落して自由になったということではなく、元々脱落している身心の真相に気付かれたということだと思います。これは道元禅師が帰国された時に、眼横鼻直という言葉を残されておりますが、当たり前のことを素直に受け止めることだと思います。坐禅とは元々、無我であった真相に気付くための手段といえるかもしれませんが、何かを得るための手段という表現をすると、坐禅が悟りや脱落する目標になってしまいがちです。そうではなく、元来の真相に気付くことです。  醜い芋虫が綺麗な蝶になるのではなく、芋虫が芋虫のままで安心であると気付くこと、他に逃げ場はないと気付くことが大切です。
24日 10月 2019
坐禅の要点は習禅にあらず、只管打坐であります。習禅とは自分の考えや思いで目標を立てて行うことを意味しますが、只管打坐とはやりがいや見返りを求めず、ただ坐ることとされています。ただ坐るということは、自身の思い考えを休息して今の事実に親しむという事です。...
13日 9月 2019
 修証義に(露命を無常の風に任せることなかれ)という教えがあります。露命とは、草についた露がいつ消えるかわからない程、はかない命、今日一日の保証さえない命を大切に精進しましょうという主旨です。...
06日 8月 2019
 皆様は西遊記に出てくる孫悟空とお釈迦様の勝負を御存知でしょうか?孫悟空は世界の果てまで飛べると言い切り、お釈迦様は私の手の中からおまえは抜け出すことができないと言い切ります。孫悟空は雲に乗りものすごいスピードで飛び立ち、世界の果てと思われる柱に自分の名前を書いて得意満面で戻ってきます。ところが世界の果てと思った柱はお釈迦様の指であったという話です。私は子供の頃この話を見て不思議でたまりませんでした。お釈迦様は数十メートルほどの大きさなのに、あれだけの距離を飛んだのになぜ?という疑問がありました。皆様はこの話をどう考えますか?  話の中のお釈迦様は宇宙の真理の象徴を表しています。孫悟空は人間の世界ではいかに優れた存在であっても、あくまでも強いこと、能力が突出しているといった人間の評価や価値基準から抜け出ていません。宇宙の真理は能力の有無に関係のない世界です。人間がどう理屈をこねようが水は高いところから低いところへ流れ、動物や虫は誰に教わらずとも子孫を残し生存する力を持っています。人間の中でどんなに権力があり、財産があっても世の中を評価や価値基準で考えているうちは本当の安心は得られません。孫悟空とお釈迦様のやりとりはこのことを表現した話だと思います。
20日 6月 2019
 前回の坐禅会で、同じ景色、同じ道は二度となく、常に新しい体験であるということをお話ししました。これに関連した教えに一期一会という茶道の言葉があります。初めて会った人に、もう二度と会うことがないかもしれないけれども、精一杯尽くしましょうというのが一般的な解釈ですが、本来は、いつも顔を合わせている家族や友人も、同じ出会いは二度となく、その時その時が常に新しい出会いであるから、今を大切に過ごしましょうというのが、禅の精神です。  子供と遊ぶのが好きな良寛様は、子供たちに「良寛さん」と呼ばれると「はーい」と返事をし、しばらくたって「良寛さん」と呼ばれると「はーい」と何度も繰り返したというエピソードがあります。子度たちはただ良寛様をからかっているつもりでも、良寛様は悟りを開かれた禅僧ですので、何度も同じ名前を呼ばれて,からかわれているとは受け取らずにその都度返事をされたという、まさに一期一会の行為を自然にされていたということだと思います。  食事をする時にも、いつもいただいているご飯も常にその時々の新しい味わいがあるということです。  見るもの、聞こえるもの、感じるもの全てが一期一会であるということを体感するのが坐禅です。
01日 5月 2019
坐禅は見える、聞こえる、感じることだけに徹するというのが大切なことですが、私たちは長年染みついた考えるという習慣によって、ただ見えている、ただ聞こえているという事実だけに留まれないので、坐禅では苦労するわけです。...
15日 4月 2019
法話とは仏法の話のことで、お釈迦様の教えを聞く縁です。法話を聞くときは、頭を空っぽにして聞かなければならないという教えがあります。なぜなら、(今日の法話は良かった。感動した。)と感じる場合、自分の考えや信念と法話が合致したところだけを覚えていて、納得できないところはスルーしていることが多いからです。...
18日 2月 2019
 坐禅とは、元来無我であった事実に気付くための実践修行です。それを実感するには、悩み苦しみは心の働きであり、心とはつかむことのできないその時々の様子だと自覚することです。私たちは無意識のうちに、朝起きてから夜就寝するまで、常に頭を働かせ考え事をしています。考えることは心の作用ですが、考えることが、喜怒哀楽の原因となります。ですから考える以前の状態(喜怒哀楽の起こる以前)を体感するのが坐禅修行です。考える以前の状態とは、ただ聞こえる、ただ見える、ただ感じるという事実であり、そこに徹することによって、喜怒哀楽は考えによって起きていることに気付くことです。ですが、私たちは考えるという体に染みついた習慣から抜け出せないために、坐禅では苦労する人が多いのではないかと思います。  考える以前の事実を手早く体験できるのが苦行だと思います。例えば、滝行は水圧と冷たい水に打たれ、考える暇がないほど水圧の痛みや寒さを全身で感じます。滝行が終わった後に、心がすっきりしたと感じる人が多いのは、考えが自然に止んで事実だけになっていたからだと思います。ですが、滝行や苦行は手軽にできることではないので、思い立ったらすぐに実践できる坐禅をお勧めします。

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