洞山了介禅師が悟りを開かれたときに、過水の偈という言葉をお示しになりました。これは、洞山禅師が川を渡っている時に、水に映った自分の姿を見て大事を了得した時の心境を表現しています。水に映っているのは確かに自分であるが、自分そのものではない。今までは、自分そのものではなく、影のほうを相手にしていたと、はっきりと了得したという事です。
鏡に映っているのは私ではあるが、私そのものではありません。物や現象は言葉によって表現されます。物を表現する言葉は、その物自体ではないが、物の様子は言葉や思考によって表現されます。ただ、言葉で私とは何者かと表現しようとすると、ますます私そのものから離れていきます。私の出身地、私の経歴、私の性格などは、私そのものではないという事です。影を中心にするのではなく、自分そのものを学ぶのが、自己を習うということです。
生活するという事は、日々判断、選択の連続でありますが、私たちは自分の外に起こっている現象を選択していると思い込んでいますが、全ては自分との隔たりのない様相です。私の外に草花や山があるのではなく、私の様相が世界の様相であると自覚するのが禅です。