9月参禅会

西琳寺の本堂は庭の少し奥にあり、駐車場は本堂の脇にあります。先日、お寺で33回忌を行ったA様は、いつも車でお参りに来られているのですが、法事が終わった後、庭を歩いてごらんになって「立派な池を最近作られたのですか」と聞かれました。私が「この池は30年ほど前に、川の上流から水を引いて作ったのですが、気付きませんでしたか?」と申し上げたところ、びっくりされていました。

 

 この話は、人が認識できないものは問題にならないという禅の風光を的確に示したものといえます。池があるという事実が先にあり、それを認識するのは必ず後になります。そして認識してはじめて問題が生じ、池がきれいだ、汚いという喜怒哀楽が生まれるわけです。A様が30年近く気付かなかった池を初めて認識した時に、素晴らしい池だという思いが生まれたという事です。これは日常生活でもよくあることで、毎日通る道を、いつも同じ道と私たちは考えますが、道や景色は移り変わると同時に、私たちの認識もその時々の様相です。そこに気付けば、常に初めての道を通っているといえます。一瞬一瞬が正念場とはそういう意味です。