孫悟空とお釈迦様

 

 皆様は西遊記に出てくる孫悟空とお釈迦様の勝負を御存知でしょうか?孫悟空は世界の果てまで飛べると言い切り、お釈迦様は私の手の中からおまえは抜け出すことができない

と言い切ります。孫悟空は雲に乗りものすごいスピードで飛び立ち、世界の果てと思われる柱に自分の名前を書いて得意満面で戻ってきます。ところが世界の果てと思った柱はお釈迦様の指であったという話です。私は子供の頃この話を見て不思議でたまりませんでした。お釈迦様は数十メートルほどの大きさなのに、あれだけの距離を飛んだのになぜ?という疑問がありました。皆様はこの話をどう考えますか?

 話の中のお釈迦様は宇宙の真理の象徴を表しています。孫悟空は人間の世界ではいかに優れた存在であっても、あくまでも強いとか能力が突出しているといった人間の評価や価値基準から抜け出ていません。宇宙の真理は能力の有無に関係のない世界です。人間がどう理屈をこねようが水は高いところから低いところへ流れ、動物や虫は誰に教わらずとも子孫を残し生存する力を持っています。人間の中でどんなに権力があり、財産があっても世の中を評価や価値基準で考えているうちは本当の安心は得られません。孫悟空とお釈迦様のやりとりはこのことを表現した話だと思います。

 仏とはほどけるという語源からきており、本来ほどけている自分に気付くことが成仏です。お釈迦様は生きながらにほどけられたので生き仏と言われたわけです。ほどけるとは人間の意思に関わらない事実(真理)を、自分の都合をはずして受け入れることです。例えば心臓や肺は人間の意思や価値基準とは関係なく動いてくれています。春になれば花が咲きはじめます。風の強い日もあれば、大雨の日もあります。そういう事実(真理)に私達は常に価値基準をつけて生活しています。そして悩みの原因は、事実(真理)に意思や価値基準を加えることで始まります。(あれはきれい、きたない、価値がある、ない、など)価値基準は人間として生活する以上必要ではあっても、その基準を絶対と思うと大きな落とし穴があります。国の法律も時代が変われば大きく変わります。事実(真理)をありのままに、ただ受け入れることが安心の生き方であると、お釈迦様は説きました。

 相田みつおさんの詩に(ただ座るだけ、ただ拝むだけ、ただになれない人間の私)とい

う句がありますが、ゆったりとただになれる生き方をしたいものです。