無心であることに気付く

 

 日本には無心になるという言葉があります。茶道や華道、武道などで、その道を極めるには考えるより先に身体で覚え、無心に動けということです。野球選手がボールを打つ瞬間にあれこれ考えていたら打てません。その瞬間は頭より先に無心に身体が動いているはずです。そしてその瞬間には(私が)という自我意識はありません。無心になるという言葉は、本来間違いで、無心である事実に気付くというのが、仏教の無我という教えでもあります。

 しかし、私達は日常生活の中では、この自我意識を強く出して生きています。人に認められたいというのがその最たることです。また私もそうですが、他人に認められたい思いや、自尊心を傷つけられると怒りがわいてきます。しかしこの自我意識をはずし、無我の心で行動すれば物事はうまく運び、他人との摩擦も起きません。

例えば会社で(お茶を入れて)と言われたときに、(なんで私がやらなければならないのか?)と思うのが自我意識です。その私がという意識を外して(私、あなた、上司、部下という区別はせずに、今お茶を入れる行為のみに集中する)ということが大切です。自我意識が強いと、お茶を入れている最中にも心の中では(なんで私がこんな雑用をしなければならないのか)などの思いが強く働くと、全く楽しくないし、お茶も美味しく入れられないと思います。しかし、この自我をはずせば(急須を取る。茶葉をいれる。お湯をそそぐ)という行為のみが残るだけです。行為はあるが人はいないというのが無我の心です。その行為のみに集中し、自我意識さえ捨てれば(なぜ私が)(こんなことやりたくない)という思いは消え、お互いが楽しく生きられるはずです。

私自身も日常生活の中で、この行動や言葉は自我意識の塊なのか、そうではないのかを考察するように意識するようにしています。その一つ一つを見つめなおし、精進し、本来無心である事実を実感できるよう精進します。

 

事実と概念の世界

 

多くの人々は事実と概念の世界を混同して生きています。例えば、(飛行船)と言われた時に、頭に浮かぶ(飛行船)は概念であり、事実ではありません。しかし、私達は頭で想像した飛行船を実存の飛行船だと思い込んでしまいます。飛行船そのものを知らない人は想像すらしませんが、知っている人は飛行船を頭に描いて、乗ってみたいと考えます。自分の頭にある思いが、自分を通して実現しようとする欲求を欲望といいます。それが満たされるとまた次の欲求が生まれ、さらに次の・・と繰り返すわけです。想像すること、欲求自体は人間であれば当然ですが、事実よりも概念の世界につかりすぎるために真実を見誤りがちです。私達は1人の人間として赤ちゃんの名を呼びますが、赤ちゃん自身はまだ自分という概念がなく、自由に生きています。しかし、物心がつくようになってこの身を自分と思い込むようになるのです。自分は誰から生まれ、どこで育ち、こんな仕事をしている。このように過去にあった経験の集大成を自分と呼んでいます。しかし、これも概念の世界であって、事実の世界ではありません。事実は今その時の状態のみです。概念の世界は様々な執着や欲望を生み出します。

昔、中国の修行僧の集団が旅をしていました。ある川を渡るときに、一人の女性が難儀していたのを指導僧の一人がその女性を抱きかかえて向こう岸に渡しました。当時の戒律では僧侶は女性と接することが禁じられていたので、それを見た多くの修行僧は悶々としていました。そして、ある一人の修行僧が我慢できずにみんなを代表して指導僧に言いました。(あなたは尊敬できる僧侶だが、女性を抱くという戒律を犯した)と。するとその指導僧はさらりと(わたしはとっくに女性をおろしたが、おまえたちはまだあの女性を抱いているのか?)と言いました。この話は戒律とは人を縛るものではなく、むしろ女性から離れたあとも女性を抱いていたという概念にいつまでも執着している修行僧に対して、自分という小さな概念の世界から抜け出せという話だと思います。

私達は、宗教を学ぶ時、自分にとって都合のよいことだけを信じようとします。あの人はいい人だというのは、自分にとって都合がよい人ということです。キリスト教でいう神の世界とは仏教では悟りと言います。しかし、多くの人たちの神は自分が作り出した、自分だけに都合のよい神であって本当の神ではありません。本当の神(悟り)は自分の概念から抜き出た宇宙の真理です。真理とは自分が信じる、信じないに関わらない真実です。宇宙の真理(万物はすべて変化の過程にあり、固定した自分というものは存在しない)という真理を理屈ではなく自分のものとして体得することが本当の幸せにつながることと思います。