釈尊の出家と悟り

 

釈尊(お釈迦様のこと)は約2600年前に実在した仏教の開祖です。釈尊はインド北方にあったカピラ王国の王子でした。物質的には全く不自由のない釈尊が、なぜ王子の身分を捨てて出家し命がけの修行に邁進したのか、釈尊の言葉を要約して書きます。

「弟子達よ、出家する前の私は、他人から見れば大変幸福な生活の中にあった。宮殿には池があり美しい蓮の花が浮かび、着物は全てカーシ産の最上の布であった。また私のために3つの別殿があり、雨季には歌舞を楽しみ、外出時は召使たちが傘蓋をかざした」にもかかわらず、その生活を捨てたのは・・・「弟子達よ、私は今までの生活の中にあって思った。立派な服を着て贅沢な食事をしてもいつかは老いて体も不自由になる。愚かな者は自らが老いる身であり、老いを逃れることができないのに他人の老いたるを見ては己のことは忘れて憂い嫌う。死は自らは逃れられない事実なのに腐乱した遺体を見ては忌み嫌う。このように日々を送るうちに我が青春の喜びはことごとく断たれてしまった」 

こうして釈尊は修行の旅に出られ、長年の苦行の末、苦行は身体をいじめるだけで本当の安楽を得る道ではないことに気付かれました。そして自我を認めて肉体を酷使する苦行をやめ、坐禅によって悟りを開かれました。釈尊は自我という固定的な存在があると勘違いするところに悩みの種がある、と気付かれました。その言葉を紹介します。

「弟子達よ、このガンジス川の流れのさまを観るがよい。かしこに渦巻きがおこっている。だがよくよく見れば渦巻きそのものというものはどこにもない。あるいは渦巻きの本質と言うものもどこにもない。それは絶えず変化する水の形状にしかすぎない。そして人間の存在もまた同じである」

釈尊は、自我という変わらない存在はない、川の流れが止まってしまえば川でなくなるように、この身も常に変わり続けている、この身に起こった都合の良いこと、都合の悪いことも変わり続ける、ゆえに流れ続けるこの身や悩みに執着することが苦の原因である、と説かれました。生命とは代謝の持続的な変化であり、この変化こそが生命の真の姿です。

 

流れる川のように生きる

 

今回はスリランカ上座部仏教のスマナサーラ長老(禅師)の説法を記載いたします。変わらない自分はいません。瞬間瞬間、自分は変わっていきます。だから瞬間瞬間、自分が幸せであるように生きることです。自分というのは流れる川のようなものです。

生きることは(流れ)ですから、変わらない(自我)は成り立ちません。自我に執着すると我儘になって、物事が見えなくなり、頑固になって不幸になります。自我の気持ちが強いと、ものすごい苦しみが生まれます。自慢すること、自分を認めてもらいたいこと、喧嘩すること、落ち込むことも自分の思い通りにしたいという強烈な自我のゆえなのです。

 

また、我々は自分が一か所で動かないという前提で物事を考えてしまいます。時が過ぎ去ると表現しますが、時が動いたわけではなく、全ての存在は止まることなく変化しているということなのです。例えば華厳の滝をみて、便宜的に「華厳の滝」と名前を付けていますが、固定した滝はないのですから「華厳の滝」は固定概念です。滝はものすごいスピードで観察不能な速さで変化しています。今の瞬間に見た滝は次の瞬間にはない。二度と同じ滝を見ることはありません。

事実は、変わらない「自我」はなく、全ては流れています。いやな事があってもその瞬間だけ。

このように全てのものは川の流れのような存在です。

川は流れるものだから、止まったら川ではなくなります。自我の執着が強いと川の流れは暴流になって氾濫します。

川が美しく流れるとき、両岸の土地に水を与え、農作物に潤いをもたらし、皆に幸福を与えながら海に注ぎます。

自分という川が、他に潤いをもたらしながら流れることが、幸福なのです。我々はそのような川のごとく生きて、最後は海と同化したいものです。

 

道元禅師の教え

 

道元禅師の教えに(仏道を習うというは自己を習うなり。自己を習うというは自己を忘れるなり。自己を忘れるというは万法に証せるなり)という言葉があります。仏道を学ぶということは自分とは何かを追求することである。そして自分という自我を忘れることである。そして自我を忘れきれば真理を得ることができる。という意味です。

お釈迦様の教えは、自分とは何かということを追求し、固定した自我が無いことを実感することです(=無我)。道元禅師の教えはまさにお釈迦様と同じことを参究し、同じことを説いています。

自分と表現されるこの身体は、知らずに生きてきました。生まれた時は、自分という自我はありません。次第に物心がついてこの身を自分と思い込み、自分は誰それという両親から生まれ、某学校を卒業して某会社に就職して、こんな友人がいて、こんな性格で…..という具合に過去の記憶の束を「自分」と思い込んでいます。しかし「自分」という言葉は社会生活をするのに便がよいので使っているにすぎません。

感情を例にとりますと、うれしい時は(私はうれしい)、悲しい時は(私は悲しい)、怒っているときは(私は怒っている)と表現します。しかしこれらの感情はすぐに変化します。一日中同じ感情でいることはまずありません。このように喜びや悲しみを感じている個体としての自分とはどこにあるのでしょうか?頭の中でしょうか?心臓でしょうか?よく観察してみると固定した永続する自分というものはなく、一瞬一瞬生まれては滅している心と身体の流れがあるだけです。(上座部仏教経典より抜粋)

もし永続する固定的な「自分」というものがあるなら、その「自分」は変化することなく常に同じ状態でいるはずです。歳をとることはないでしょう。でも実際には全ての存在は常に変化し続けています。特に心は途轍もない速度で生滅変化しているので、私達は固定的な自分というものが存在すると錯覚してしまうのです。地球が太陽の周りを回っていることを実感することが難しいように「永続する固定的な自分は存在しない」ということを実感することは難しいものです。これを実感するのには、心の動きを良く観察することが大切です。怒りが込み上げてきたときは「怒りという感情が今生まれてきたな」と客観的に観られる智慧が必要です。そして感情を冷静に観察できるようになると、この身体も感情と同じように瞬間瞬間、生じては滅しているということに気付くわけです。これに気付くにはやはり坐禅が一番の近道だと思います。