お釈迦様(釈尊)の苦悩と出家

 

 釈尊は約2600年前、インドの北方にあったカピラバス王国の皇太子として誕生しました。生後7日で母を失いましたが、皇太子という身分でしたので、非常に裕福な環境で育ちました。しかし釈尊の心はいつも晴れませんでした。楽しい宴が終わった後の虚しさを感じ、城の外に出ると、虫をとらえ食べている鳥を見て、生きるためには他の生命を奪わなければならない、と心を痛め、つえをついて歩いている老人を見ては、この若く頑丈な体もいつかはそのように老いてしまう。病気に苦しむ人を見ては、自分もいつかはあのように苦しまなければならない。葬送の列を見ては自分自身もいつかは死を迎え、愛する妻子と別れなければならない時が来る。このように深く悩む中、釈尊が29歳の時、本当の幸福は富や権力や名誉ではないと気付き、城を出て真理を求めて出家しました。六年間の苦行の末、最終的には坐禅によって宇宙の真理を悟られたと伝えられています。その悟った内容を弟子たちに示した内容が現在伝わる仏教の経典となったのです。

 悟る以前の釈尊の苦悩は四苦八苦といわれる8つの苦しみをいかに克服するかということでした。四苦八苦とは生老病死の四苦に加え、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の8つの苦を意味します。

 生(生まれる苦しみ、生きてゆく苦しみ)

 老(老化する苦しみ、身体の衰えなど)

 病(病気になる苦しみ、身体の痛みなど)

 死(死をむかえる苦しみ、死の恐怖など)

 愛別離苦(愛する人といつかは別れなければならない苦しみ)

 怨憎会苦(嫌いな人、憎い人と関わりながら生きる苦しみ)

 求不得苦(望みがかなえられない苦しみ)

 五蘊盛苦(身体や心が思い通りにならない苦しみ)

この中でも特に苦しいのは、重い病気になること、死への恐怖、愛する人との別れではないかと思います。これらの苦しみを釈尊はいかにして克服したのかを次に記します。

 

 四苦八苦の克服

 

 釈尊(お釈迦様)は前述の四苦八苦を、最終的には坐禅によって真理を悟り、全ての苦しみから解放されました。現実におこる老化や死から逃れることは不可能であっても、心の持ち方、物の見方が大きく変わったことで、全ての苦しみが消滅したのです。

 その悟りの究極のところは、言葉や文字で客観的に記すのは不可能で、自身の体験(修行)によって得るしかないとされています。しかし、釈尊はその正しい行いの心構えとして、八正道を説かれました。八正道を理解し実践することで悟りへの道を示されました。八正道とは8つの正しい考え方や行為を意味し、簡潔に記しますと

1正見(正しいものの見方)

2正思惟(正見に基づいた正しい思い)

3正語(正見に基づいた正しい言葉を語る)

4正業(正見に基づいた正しい行いをする)

5正命(正見に基づいた正しい生活をする)

6正精進(正見に基づいた正しい努力をする)

7正念(正見に基づいた正しい気付きに至る)

8正定(正見に基づいた正しい瞑想をする)

2~8については記した通り、すべてが1の正見に基づいての行為となるので、1の正見を明確に理解し実践できれば、八正道すべてを理解し実践することになり、悟りへの道となるのです。その正見について説明します。

正見とは正しいものの見方と説かれていますが、私達は物事を正しく見ているようで、実は正確に見ていないのが事実ではないかと思います。日常に起こるさまざまな現象や状況に、いつも自分の都合や人間中心の都合を上乗せして、物事に善悪や苦楽の判断をしているからです。

例えば、何か催し物がある日に雨がふると、その雨を(あいにくの雨)と表現しますが、同じ雨も待ち望んでいた人から見れば(恵みの雨)となります。この違いは、自分の都合を雨という自然現象に上乗せして、雨をみているからです。雨という現象に、本来はあいにくも恵みも無く、純粋な自然現象であり、善も悪もありません。これを仏教では空と表現しています。

また、私たちは花を見ると綺麗だと思うわけですが、私が見ている花とあなたが見ている花は同じように映ってはいないのです。赤いという言葉は、人が便宜的に名付けたにすぎないだけで、100人いれば100の赤があるわけです。同じ花を犬が見れば、綺麗だと思うかは疑問ですし、犬の目は白と黒の色彩の区別しかないと言われていますので、私たちが見ている花とは違う存在に映っているかもしれません。しかし花は人が綺麗、汚いという思いに関わらず、春になれば咲き、散っていきます。

さらに、生死(仏教ではしょうじと読みます)の問題について。人は誕生して、成長して、老化して、病気になりいつかは死を迎えなければなりません。正見があれば、成長も老化も同じ現象であり、生も死も同じ現象であると気付きます。しかし、一般的には幼い子供が成長するのは喜ばしいが、ある程度の年になると、これ以上は年を取りたくないと、さまざまな足掻きをするわけです。死については、他人の死と受け止め、自分とは関係のない事実として生きています。ですから健康な人が、急に病院で余命1年などと宣告されると動顚してしまうわけです。生は偶然、死は必然です。それが当たり前の真理として実感できれば、老化や病気や死の苦しみは緩和されます。日常生活の中で、自分や人間の都合を外して物事を観ることが正見であり、それに基づいた様々な行為が八正道です。そして、正見によって、自分とは何かを明らかにすることで、この身体が無我であったと気付くことが最大の安心を得ることになります。