お釈迦様は、死後の世界や霊魂の存在については「無記」と言って、あるともないとも答えていません。そんなことを考えているより、今この瞬間を真剣に生きることが大切であると説かれました。

 宗教の存在意義の一つは、死の恐怖からの解放、であると言われます。その方法論の一つが、死後の世界、つまりあの世を肯定することです。キリスト教や多くの宗教では、あの世があるという前提で教えを説いていますが、あの世の存在について肯定していないのは仏教だけです。六道輪廻という考え方もありますが、これは古代インドのバラモン教の影響を受けたもので、お釈迦様自身は、存在するかしないか証明できないことに時間を費やすことはしませんでした。あの世があってもなくても変わらない生き方が大切であると説いています。

 現代科学の発展、特に量子力学の分野では、素粒子は実体として存在しているように見えて、見方を変えると存在する傾向にあるだけで、あるともないともいえない、ということが発見されています。宇宙の成り立ち、すべての存在が「色即是空」であることが科学で証明されたといえます。将来、あの世の存否さえも証明できる、とまで主張する科学者もいるそうです。しかし、それは知的好奇心が満たされただけで、自己の問題解決にはなりません。無我であったと気付けば、あの世が存在しようがしまいが関係なくなる、というのが仏教でいうところの「悟り」の境地です。そのためには坐禅をして、少しでもその境地に近づきましょう。

 ではなぜ、死後の世界や霊魂を肯定していないのに仏教では法事を行うのか?という疑問もあるかと思います。法事は、御遺族が故人の生前の徳行をたたえ、感謝の気持ちを儀式という形に表し、故人になり代わり仏教を学び、実践するという請願を新たに立てる場です。また、故人が生きていたとすれば、ご遺族の幸せを最も望まれているのではないかと思います。幸せとは、自分の欲望や願いを満たすことではなく、仏法を学び実践することです。ですから、法事の時に共に読経して、住職に疑問をぶつけ、少しでも仏法を実践することが幸せへの道です。すなわち、法事は御遺族自身のための儀式なのです。

 生は偶然、死は必然という禅語があります。この意味は、私達が生きているのは様々な要因が重なり、奇蹟的な確率で命を天から預かったことを表しています。道元禅師は「人身(にんしん)得ること難し」と説いています。人間に生まれることは難しい、という意味です。ですから生きているのは偶然で、死は誰にでも平等に訪れる必然な事実です。しかし、私達はこのように生活していますと、生きているのが当たり前で、死は自分とは関係ないこと、考えたくない現象と思っています。死という絶対的な事実に、蓋をして生活しています。ところが、病気もあまりしない丈夫な人が突然癌の宣告を受け、余命数ヶ月といわれると、なぜ私がこんな目に・・・信じられない・・・といった具合に取り乱してしまいます。これは日頃、生が必然で死が偶然と思っているからです。事実は生が偶然、死が必然です。

 仏教では、この死の恐怖からの解放、というテーマについて、あの世を肯定して安心させるのではなく、生と死という二元論的区別はない(不生不滅、無老死亦無老死尽)、と教えます。逆説的ですが、死んだ後の生を考えてみても意味がない、ということだと思います。

 例えば、ある大富豪が、時価10億の家屋敷を2つの条件を満たした人に譲ります、という看板を建てたとします。それを見た人がその条件を聞いてみると、1つ目の条件はこの家屋敷は人に譲ることが出来ない、2つ目はこの家屋敷を買ってからあなたの命は七日以内でなくなる、というものでした。この条件を聞いた途端、急に10億の家屋敷が全く価値のないものに思えてきます。この話は財産やお金はあの世に持っていけないという事実と、命は露のごとくはかないという事実を教え、本当に大切なものは何かということを問いかけています。お釈迦様も、死んだ我が子を生き返らせて欲しいという母親に対し、死人を一人も出したことのない家から芥子の実をもらってくるように、と言いました。母親は必死にそれを探しましたが、その家を見つけることができない代わりに、人は必ず死するという事実を実感し、子の死を受け入れました。

 修証義というお経に(ただ1人黄泉に赴くのみなり、己に従い行くはただ善悪業のみなり。)とあります。この世を去るときは何も持っていけない、唯一残るのは本人がこの世で残した善悪の行為のみであるという意味ですが、この行為の影響は何万年も先まで生き続けます。だからこそ、死んで全てが終わるということではなく、生死は一如であり、後世に善行を残し、他人を思いやり、自然を敬う慈愛の心を持つことが大切であると仏教では説きます。