幸福とは何でしょうかと聞かれれば、人それぞれの価値観があると思いますが、若い方であれば、有名大学に行って、安定した企業に勤めて、理想の人と結婚して子供を授かり、好きな家を立て、お金に困らない生活をしたい。あるいは政治家になりたい、企業家になりたい、などさまざまな夢があると思いますが、もしこの夢に向かって努力した人が希望の大学に入れなかった。希望した企業に就職できなかった。とすればどうなるでしょうか?その人の人生は失敗でしょうか?着ている服や住む家や、勤める会社で幸福が決まるのでしょうか?これらは世間の評価であって本当の幸福ではありません。幸福とは自由に生きることであって、自由とは自分勝手に好きなことをする事ではなく自分に由るという意味です。ある歌手が(私から歌を取ったら何も残らない)と言いましたが、生きるという本質からすれば間違った思考であると思います。

 自分が幸福かどうかは自分の心が決めるものであって、世間が決めるものではありません。仮に着ているものが粗末であっても、不幸か幸福かは自分の心が決めるものです。例えば、家族がいて、毎日一緒に食事をしていても、それが当たり前と思っていたとします。しかし、今回の大震災のような災害にあって、家族を失い、家を失うと、これまで当たり前だったことが当たり前でなくなります。次の詩は阪神大震災の後、小学5年生の女の子が書いたものです。

 「食べられること 眠れること 学校に行けること 友達と遊ぶこと 家族で話せること 大人が仕事をすること 健康で安心なこと  それは当たり前だった  それが幸せに変わった 阪神大震災が私に残したこと   平成7年1月17日  佐藤裕子」

 この詩は日常当たり前と思っていた普通の事が、出来なくなってしまった時にはじめて、世間でいう平凡なことが、大変ありがたく、感謝すべきことなのかという事を如実に表わした詩だと思います。

 妻が食事を作るのが当たり前、掃除洗濯をするのが当たり前、水を飲めるのが当たり前、心臓は動くのが当たり前、生きているのが当たり前、と感謝の気持ちを忘れがちになります。

幸福(自由)とは、外に求めるものではなく、感謝の気持ちを忘れず、他者と比べずに、どんな状況でも、自分の心を豊かに保つことです。これを「平常心是道」と言います。

 人生において楽しいこと、苦しいことはたくさんありますが、楽しい、苦しいと感じる原因のひとつは過去との変化によって感じるのです。例えば何時間も立ち続ければ立っているのが苦しみで早く座りたいと思います。座ったときに楽な気持ちになります。しかし、そのまま何時間も座り続ければ、楽が苦に変わり、早く立ち上がりたいと思うはずです。このように人は、変化によって苦が楽になり、楽が苦になります。

 どんなに旅行が好きな人でも、一年中旅行をしていなさいと言われれば、楽しいと思えなくなるように、楽しいと思っていたことを一年中やってなさいと言われると、楽しいことが普通のことになり、楽しみではなくなるわけです。逆に仕事が嫌いな人が一年中仕事をするなと言われても、最初は幸せでもいつかは苦痛になるはずです。

 もうひとつの原因は、明日の事、将来の事を想像して楽しい気持ちになったり、苦しい気持ちになったりします。しかし、それは頭(想像)の世界のことであって現実ではありません。私たちは現実をしっかり見ているようで実はよく見えていないのです。

 お釈迦様は、悟った人と、凡人の違いを病気に例えて説いています。悟った人も凡人も身体の痛みは変わらないが、凡人は身体の痛み以外の苦しみを頭(想像)の世界に作り出してしまう。(この病気は治らないのでは?いつまで苦痛が続くのか?)そして苦痛を何倍にも増幅させてしまう。体の痛みを一の矢とすると、悟った人も凡人も一の矢は等しく受ける。ただ凡人は想像の世界によって二の矢、三の矢を受ける。

 人間である以上、想像するのは本能として当然ですが、現実の世界と頭(想像)の世界を見極めることがお釈迦様の教えであり、坐禅がその実践修行です。坐禅とは自己を手放し現実の世界を見極めるものです。是非皆様にも実践いただきたいと思います。

 最後に永平寺前住職・宮崎禅師の言葉を転記します。

「人と比べることから不幸が始まり、後先を考えることから不安が生じる。人生に失敗は無い。あるのは心の愚痴だけである。」