6/6は大雨の中、9名の参禅でした。弁道話の一説に、(この法は人々の上に豊かに備われりといえども、いまだ修せざるには現れず、証せざるには得ることなし。)とありますが、仏性は人々に豊かに満ちてはいるが、それを実践修行しなければ現れず、自覚しなければ自分のものにならないという事です。
その例として、中国の寶徹禅師と弟子の問答に、風性常住という公案があります。禅師が夏の暑い日に扇を使って扇いでいると、弟子が(風はどこにでもあるのに、なぜ禅師は扇を使うのか)と詰問しました。禅師、曰く(おまえは風がどこにでもあるのを知識としては知っているが、それを使う事を知らない)と答えます。
この問答では、風は仏性のことですので、本来仏であることの自覚がなければ、それを活用することはできないという事です。それを自覚するのが坐禅であり修行であります。修行と聞けば、辛い苦しいというイメージが沸きますが、思いを中心とした生活が習慣になっている人からすれば、道元禅師の説く修行は、日常の習慣である思いを手放さねばならないので、大きな抵抗があるわけです。道元禅師は生活の全てが禅であり、それを実践していくことが、悟りと修行はひとつであるという修証一如を説かれております。