5月参禅会

5/10の参禅会は、初参加の2名を含む11名で修行しました。前回、ご質問のあった六祖慧能禅師と神秀和尚の違いを説明した要点を記します。

神秀和尚は心を鏡に例え、心を鏡のようにきれいに保ち、常に煩悩や欲望(塵や埃)がつかないよう、鏡を磨くようにふき取っていくのが修行であり、悟りへの道だと示しています。一般常識からみれば模範的な教えです。

 

それに対し、慧能禅師は本来無一物と記し、悟りとは自分を変えることによって得られるものではなく、煩悩や欲望は無理に抑え込むという事でもなく、心は元来、きれい、汚いという分別がない、その時々の様相であるから、捉えることはできない。と諭されていると思います。その時々の様相を自覚すれば、怒りが沸いてきたとしても、怒りに燃えて自らを失うことはないと思います。心の様相を自覚することは、自己を習う事であり、煩悩や欲望という分別の起こる前の様相は無一物であると自覚できるのが坐禅の要所です。