乾屎橛(かんしけつ)
禅語に乾屎橛(かんしけつ)という教えがあります。修行僧が仏や悟りとは何か?という問いに対し、中国の雲門禅師は乾屎橛と答えられました。乾屎橛とはトイレで便をしたときに使う竹べらのことで、紙の代用品のことです。なぜ、仏様や悟りが汚い竹べらなのか理解に苦しむ問答であり、意味不明な答えのように感じますが、人生の究極のところは呼吸をして、食べて出すだけとも言えます。
この問答がばかげていると感じるのは、人生の意義、やりがいを模索し、常に目標や刺激を求めているからだと思いますが、やりがいや目標が満たされると、また次のやりがいを外に探そうとします。しかし、生かされている根本には、食事や洗濯、掃除や用便といった大切な行為があります。軽視されがちなこれらの行為をおろそかにしないという主旨と受け取っております。
正法眼蔵の現成公案に、「人、舟に乗りゆくに、めぐらして岸を見れば、岸の移ると見誤る。目を親しく舟につくれば舟の進むを知る」とありますが、外だけを見ていると景色が動いていると見誤るが、内に目を向ければ舟が動いている事実を自覚できるという意味です。外に目を向けるとは、やりがいや、達成感が主眼であり、内に目を向けるとは、自己の真相を見つめるということです。坐禅とは自己の真相を見つける修行です。