6月坐禅会

 数か月ぶりの参禅会にも拘らず、初参禅の方2人を含め、10名の参禅がありました。久しぶりでしたので、今一度坐禅の心得をお話ししました。

 坐禅は無所得無所悟でなければならないと、道元禅師は説いています。やりがいや見返り、悟りを求めずに坐るという事です。ところが、坐禅をしようと発心した人は、悩みから救われたい、今より良い境涯を得たいという願いから始められる方が多いと思います。その願いは大切なことですが、坐禅を実践するにはその願いを一旦休息していただき、見返りを求めずに坐ることが大切です。その結果として、実践し続けることで、救われている事実に気付くことです。

 しかし、私たちは、日常生活では、一つ一つの行為に、何かしらの意味付けや見返りを求める習慣が根強いために、やりがいのない行為は辛く感じるわけです。以前に聞いた話ですが、ロシアで最も重い刑罰は、罪人にひたすら穴をほらせて、埋め戻すという行為を一日中やらせるそうです。自分の行為が何の役にも立たないことほど辛いことはありません。

 坐禅は、このような見返りを求める心を離れないと、坐禅になりません。私たちは、価値のあるものをいつも考えています。価値の無いものは、思いに出てきません。聞こうとしないし、見ようとしないわけですが、坐禅は、価値の無さそうな景色が眼に映り、聞きたくない音も入ってきます。価値観を外して坐れるようになると純粋な事実の連続に気付きます。