身心脱落

 

 

 

 身心脱落という禅語がありますが、これは道元禅師が中国の如浄禅師の下で坐禅中に悟りを開かれた言葉として伝わっています。身心脱落とは身体と心のわだかまりが抜け落ちて自由自在な心境になったという意味です。道元行状記に、道元禅師が恩礼の挨拶に行き、「身心脱落しました。」と告げると、如浄禅師に「脱落の身心だ」と言われ、さらに大悟したと記されております。脱落していない不自由な身心が、脱落して自由になったということではなく、元々脱落している身心の真相に気付かれたということだと思います。これは道元禅師が帰国された時に、眼横鼻直という言葉を残されておりますが、当たり前のことを素直に受け止めることだと思います。坐禅とは元々、無我であった真相に気付くための手段といえるかもしれませんが、何かを得るための手段という表現をすると、坐禅が悟りや脱落する目標になってしまいがちです。そうではなく、元来の真相に気付くことです。

 

 醜い芋虫が綺麗な蝶になるのではなく、芋虫が芋虫のままで安心であると気付くこと、他に逃げ場はないと気付くことが大切です。