仏道を習うというは自己を習うなり

 私たちは、この身体を私のものと思い込んで、身体を自分の思い通りにしたいと欲して、思い通りにならないときに悩み、苦しみます。これを自我意識と呼びますが、この身体は私のものではないと気付けば、悩み苦しみは激減します。この身体は世界から独立して存在しているわけではなく、私という思いの所有物ではありません。これを無我と呼びますが、私たちは、誰でも元来無我であったという事実を実感するのが坐禅です。この身体が無我である事実を理屈で説明しますと、私とは何かということを自問自答してみて下さい。私とは、生まれてから今までの生きてきた事実とその記憶の集大成といえます。しかし、今まで生きてきた事実を全て正確に思い出すことは不可能です。数十年の人生の中で思い出せるのは、印象深い過去の経験であって、それを正確に思い出しても、それはあくまで思いの世界で、事実ではありません。では、昨日の出来事はどうであったか?一時間前の私の様子は?というように突き詰めていきますと、それを考えている主体は誰なのかということです。その時、その時の事実があるだけです。事実には喜怒哀楽はなく、後から思いによって喜怒哀楽が起こるのです。日常生活の中でも、この身体の様子を参究することをお勧めします。