不思量を思量する

 

坐禅用心記に、(不思量底を思量せよ。不思量いかんが思量せん、非思量これすなわち坐禅の要術なり)と記されております。

 

今、私たちが見えている景色は、私たちが考えたから見えているのではなく、考える前に見えていました。聞こえた音も、考える前に聞こえていました。その考えの前にある世界を、自分の考えを介さずに見聞するのが不思量で、その事実そのものを非思量といい、事実は考えではないということです。

 

私たちは事実に対し、常に自分の考えを上乗せして世界を見る習慣が染みついています。事実そのものには悩みや苦しみは存在しません。私たちが後から考えて悩み、苦しみを作り出しているのです。お釈迦様は、真理を悟られたときに、「家の作り手を見つけたから、もう家は作らない」という言葉を残されましたが、家とは思考のことです。

 

坐禅はこの思考につかまらずに、事実に徹する修行です。