ここでは、嗣法(しほう、正伝の仏法を承継すること)の瞬間にまつわる禅語をご紹介します。
まずは「一器の水を一器に瀉(そそ)ぐ」から。これは師匠が弟子に仏法を伝授するにあたり、僅かにも減じず僅かにも増やさず、すなわち師匠と弟子とが完全に一体となって仏法を正伝する様子を表し、師資相承(ししそうしょう)ともいいます。
開祖・お釈迦様から初代・摩訶迦葉(まかかしょう)に仏法が伝授され、さらに流れて第33代目の大鑑慧能(えのう)まで師資相承(ししそうしょう)されたことは、釈尊以来の衣鉢が代々授受された事実により歴史的に証明されている、とされております。
開祖・釈迦牟尼尊から初代・摩訶迦葉へ
開祖・お釈迦様が、大勢の高弟を前に、華を手で拈(つ)まんで持ち上げると、多くの弟子たちは意味が解らず、その行為の意味を探ろうと思案したが、弟子たちのうち摩訶迦葉(まかかしょう)ただ一人が、何も言わずに微笑み返したという。自分の思考というフィルターを通さず、今の事実に徹することができた摩訶迦葉を初代の法嗣(はっす、仏法の正式な継承者)とお釈迦様が認めた瞬間である。
第28代・菩提達磨から第29代・大祖慧可へ
第28代・菩提達磨大師は、南インドから中国に来て、少林寺の洞窟で9年間も壁に面して坐禅し、禅宗を開いた。坐禅し過ぎで手足がなくなってしまった、あのダルマさんのモデルである。時の権力者・武帝との対話にある「無功徳」「廓然無聖」も知られているが、雪中で自らの肘(ひじ)を切り落として入門を乞うたという、後に第29代目となる慧可(えか)との対話「安心の禅」が有名である。いまも心が不安であるという慧可に対し、達磨大師は「では、その不安な心をここに持ってきて見せよ」という。慧可が「心は掴むことはできません」と答えると、達磨大師は「ほら、もう自分で掴んでいるではないか」といって慧可を安心(あんじん)させ、法嗣と認めた。ほんらい無我無心であることに気付けば究極の安心が得られるのである。
第32代・大満弘忍から第33代・大鑑慧能へ
第32代・大満弘忍(こうにん)禅師の下には700人もの弟子たちが集まっていた。あるとき弘忍禅師は皆に心境を書かせた。左は門下トップの修行僧・神秀(じんしゅう)の作、右は新参の米搗き行者・慧能(えのう)の作である。対照的な両者の作、さて第33代目の法嗣を許されたのは?
(神秀の作↓) (慧能の作↓)
身是菩提樹 | 菩提本無樹
(身は悟りを宿す樹である) | (悟りの身などない)
心如明鏡台 | 明鏡亦無台
(心は鏡のように曇りない) | (鏡の心などもない)
時時勤払拭 | 本来無一物
(常に精進して煩悩を払え) | (もともと何もない)
勿使惹塵埃 | 何処惹塵埃
(煩悩で汚してはならない) | (煩悩のつき所がない)
その後、悟りは努力を積み重ねて得られるという「漸悟禅」を説いて北宗禅を開いた神秀であったが、すぐに途絶えた。これに対し、悟りは努力の積み重ねで得られるものではなく、もともと「無我」であることに気付きさえすればたちどころに得られるという「頓悟禅」を説いた慧能は南宗禅を開き、道元禅師を経て今日の隆盛に至る。悟りに至るための方法論の違いではあるが、上記漢詩で「無我」という仏法の神髄を突いていると弘忍禅師に認められたのは慧能であった。