目的と手段

 

 私の修業時代の師匠で余語翠厳老師(平成10年永眠。元大本山総持寺副禅師、大雄山最乗寺住職。安心の生き方、道はじめより生ず。など著書多数、NHKなど宗教番組に出演)という稀代な老師がおられました。

 日頃、老師は(一瞬一瞬が正念場である。今この時しか事実はなく、後も先もない。過去と未来は全て頭で作る幻影である。)ということをおっしゃっていました。この意味を本当に理解できると、人生には失敗というものはないことがわかります。大多数の人は高収入や安定した処での就職を望み、その手段として懸命に勉強するというのが一般的ではないでしょうか。しかし、苦労してつかんだ就職も、仕事が手段でなく目的でないと正しくないと思います。仕事が手段であると、収入のために働く無味乾燥なものになりがちです。

 (なすことの一つ一つが楽しくて、命がけなり遊ぶ子供ら)という歌がありますが、子供たちは遊ぶこと自体が目的であって、遊びを何かを手に入れるための手段にしていないということです。遊びに見返りは求めていないということです。ですから仕事も遊びもその時その時が正念場です。未来に向けて計画を立てることは大切ですが、世は無常です。計画通りにいかないのが人生です。

 私の知り合いに、弁護士をめざして猛勉強していた人がいました。何度も試験に落ちて自閉症になり、自分のことを人生の落後者などと呼んでいましたが、勉強自体が手段であれば、勉強したことが無駄になるわけですが、勉強自体が目的であれば何も無駄ではなかったということです。人生は登山に似ていると思います。頂上をめざして歩いてもたどり着く保証はありません。しかし、たどり着けなければその人の人生は失敗でしょうか?その過程の景色や一歩一歩が大切であって、結果は結果です。人間の体はいつまでも若くはないし、五体満足でいられる保証もありません。やる気があっても、体も心も弱くなる日が必ず来ます。そういう一つ一つの事実に姿勢を正して取り組むことが大切だと思います。病気になって寝たきりになっても、寝たきりに取り組む。失敗したら失敗に取り組む。気に入ったことに取り組むように。

 道元禅師は(一行に遇うて一行を修す)という言葉を残されていますが、まさに余語翠厳老師の言われた一瞬一瞬が正念場のお示しのごとくです。今を大切に精進したいものです。