悩み、苦しみの根源

 

 人は誰でも多かれ少なかれ何かしらの悩みや苦しみを持ち生活していますが、悩みや苦しみの原因のほとんどは、過去との比較、他人との比較から生じるとお釈迦様は説かれます。

 私たちはいつも他人と比較して、私は頭が良い、悪い。仕事が出来る、出来ない。他人と比較して、裕福だ、貧乏だ、と優越感や劣等感をもち一喜一憂してしまいます。最近よく耳にするのが、ユーロの金融危機が原因でさらに世界経済が不景気に陥るということを聞きますが、不景気、恐慌といっても戦中戦後の食糧難の時代や、現在でも食べるに困っている多くの国から見ればまだまだ豊かであるに変わりは無いはずです。原油高で生活が苦しいというのは一理ありますが、原油高によって余計に車や冷暖房を使わなくなり、地球にとっては望ましいことと思います。私の家は生活が苦しいと悩む。しかし、この苦しいと思う理由が世間一般と比較してのことなのか、隣近所と比較して苦しいと思うのか?もしそうであれば比較しなければ悩みは消えるわけです。

 また私たちは自分の過去と今を比較して悩みます。昔は大きな会社を経営して裕福だった。今は会社が倒産して財産を失ってしまった。昔はよかったなー。昔はモデルをしていてスタイルもよく美人であったが今はしわが増えて太ってしまった。昔に戻りたいなー。このように人と比較する、過去と比較することで悩みを自ら作ってしまうわけです。永平寺の故宮崎禅師はこのような言葉を残されています。(他人と比べるところから不幸が始まり、後先を考えるところから不安が生じる。人生に失敗は無い。あるのは本人の人生の愚痴だけだ)と。

 また、私の修行時代の師匠は十年前に癌で他界されましたが、闘病中にこのような言葉を残されています。(今は寝たきりで糞小便も人任せである。体もあちこちが痛い。健康で丈夫だった自分と今を比較するからさらに苦しくなる。比較しても今この時が真実の姿なのだから今が最高の時だと思い生ききる意外に何も無い。)

 私たちは、考えることによって悩んだり苦しんだりしますが、考えられる事は、過ぎた事、これから起こる事だけです。しかし私たちはいつも今というところにいます。その今を大切に、人との比較、過去との比較をやめ、感謝の気持ちを忘れず精進したいと思います。 

 

無分別智

 

無分別智とは分別が無いということではなく、人間の評価基準を超えて、地球規模でものを感じるということです。私たちは、いつも自分の立場からいろいろな現象や出来事に対し、都合が良いことはすばらしい現象。都合が悪いことは悪い現象と評価します。例えば自動車会社の社長からみれば車を多く販売してくれる営業マンはすばらしい存在です。しかし、地球からみれば車が増えれば大気がさらに汚れるので自動車会社の社長がすばらしいと思う営業マンは地球にとっては都合の悪い存在となります。

ある水族館で、飼育している魚のえさに金魚を与えていました。すると来館者から苦情が寄せられます。(残酷だ。子供の教育上良くない)という苦情です。そこで金魚の代わりにドジョウをえさにしたら苦情がなくなったそうです。金魚が食べられてしまうのは残酷で、ドジョウは食べられても問題ないというのが分別智です。

また、自然界ではライオンが鹿を食べるのが現実であって、かわいそうだから鹿を助けようとするのは分別智です。(人情からすればかわいそうと思うのは当然ですが)

私たちは出来ることと、出来ないことを明らかにすることが大切です。分別智では百人の子供がいれば優等生と劣等生に分けられます。劣等生が努力して自分の学力を上げることは可能ですが、相対順位が上がるかどうかは他人次第です。歌手が努力して歌がうまくなることは可能ですが、歌が売れるかどうかは他人次第です。これを相対評価と言いますが、自分の人生を世間のモノサシにあわせることは、ある程度必要であっても絶対ではありません。しかし私達はこの世間のモノサシ(世間体など)に縛られて生活しがちです。いつまでも生きていたいと願っても死は天命次第です。世間のものさしに振り回されず、今自分が出来ることに邁進することが無分別智です。