確かに、最近では核家族化や少子高齢化を背景に、お墓を継ぐ祭祀承継者がいない、いても負担をかけたくないから、お墓は要らない、自分は散骨して欲しい、今のお墓も墓仕舞いしたいという考え方の人もおられます。しかし、本来、お墓は故人の遺徳をしのび、先祖の安住の地であり、ここに来れば心が安らぐ場でなければならないのに、お墓参りや、お墓の掃除を義務や負担と感じ、経済的な負担や、誰が守るのかといった争いの種になっているのは非常に残念です。自分自身がそういう生き方をしているということは、子供にどのような教育をするのか非常に疑問に思います。子供はいないという方でも、もう一度お墓の意義を考えて頂きたいと思います。

 お墓は必要という人でも、夫や夫の両親と同じ墓には入りたくない、という方が増えていると、先日のNHK番組でも放送していました。その理由は、夫の両親が嫌いだから、自分の生まれ育った土地に永眠したい、夫本人が嫌いだから、というのが大方の意見でした。夫が嫌いな理由に、夫には思いやりがない、自分本位で家族の事を考えないから、あの世に行ってまで夫の世話をしたくないからという意見が多かったようです。ですが、夫や舅の立場からみれば、妻が優しくない、思いやりがないといった具合に、お互いの詰り合いのようでした。よく、夫(妻)の悪口、職場の悪口を頻繁に話す人がいますが、人を貶めることによって自分の正当性を主張しているつもりが、実は自分自身を貶めているということです。そういう悪い夫を選んだのは誰なのか?そういう職場を選んだのは誰なのか?全て自分です。個人のエゴが強すぎるために、お互いに譲ることができない、お互いに感謝できない、今の地位は、自分個人の努力の賜物であると思い込み、多くの人々や両親や先祖のおかげで生かされているという報恩感謝の心がないのが、このお墓の問題の根底にあるように思います。あの世があるかどうかはわからないけれども、夫(妻)と一緒に永眠したい、生きている間だけでもお互いが思いやり、仲良くしたいという気持ち、同事(相手の立場に立ち、相手と同化すること)の精神が今、問われていると思います。

  葬儀が必要な理由は、亡き人が全身心をあげて遺族に無言の説法をする大切な機会であるからです。(全ての生命は必ず死をむかえなければならない。必ずこの日が来る。しかも待ったなしに。いつ死んでも良いような今日一日、一瞬の命を大事に生きよ)ということを、どんな方でも語りかけてくれています。人は誰でも裸で生まれ、裸で死んでいきます。その間にたくさんの衣装を着ます。華やかな服やみすぼらしい服、優越感や劣等感という服、金持ち、貧乏人という服。ほとんどの人がこの服にばかり目を奪われて一生を終わります。その服を脱ぎ捨てた裸の自分自身をどうするかが大切です。人は死を恐れ、死を忌み嫌い、死から目をそらそうとします。自分自身が健康で若ければ尚更であります。しかし、身近で大切な人の死を目の前に突きつけられる時、本気で生命とは何か?生きるとは何かを考えさせられます。死を考えずにいかに生きるかを語ることはできません。どのような生き方が本当に価値あるものかということは、今すぐにも死ぬかもしれないという窮地に追い込まれ、一日でも長く生きたいと天にすがり泣き喚くような状態になる前に知るべきだと思います。

人生の計画をたてるのは結構なことですが、目的に向かって今行っていることを手段としていると、目的を達成する前に死を宣告されると大変苦しむことになります。今行っていること一つ一つを目的としてとらえることが大切だと道元禅師は説いています。

人は他人に認められて幸せを感じます。例えばプロ野球選手が技術を磨いて上達しても、観客が1人もいなければ選手は幸せを感じないと思います。歌手も人に聞いてもらって喜んでもらってはじめて幸せを感じるはずです。そしてその目的のために努力をするわけですが、その努力を手段としていると、挫折をした時や目的に到達できない場合に大変苦しむことになります。ですから全ての行為一つ一つを目的として今を大切に生きることが大切なことだということです。全てが目的であれば、食べることも寝ることも、生きるために食べる、疲れをとるために寝るということではなく、食べることそのものが目的だということです。選り好みをせず、何かの為という思いを超えて今、この時を真剣に生きることが大切だと思います。