禅語(その参・悟り編)


 ここでは悟りに関する禅語です。

 

まずは「平常心是道」から。「びょうじょうしんぜどう」と読み、平常心とは元々備わっている心という意味で、その心が道(悟り)そのものという意味です。しかし私たちは、元々備わっている心に自我意識を上乗せして生活をしています。私が傷ついた、私が苦しい、私が楽しい、といった具合に。その自我意識が執着や悩みを作り出します。人は生れ出たときに、(私が生まれた)と自覚して誕生した人はいません。赤ちゃんは元来、自我意識はありません。私と母親という相対的な意識もなく、自分と他人の区別もなく、環境と一つになって活動しています。仮に叩かれても痛いと感じたから泣くだけです。自我意識があると、叩かれた痛みに加えて、なぜ私が叩かれたのか?誰が私を叩いたのか?という怒りが痛みに上乗せされます。成長の過程で親がつけた名前を私と思い込み、これは私のおもちゃというように、自我意識(自分と他人という隔たり)が芽生えると、悩みのはじまりです。一般的には物心がついてめでたいとされますが・・・自我意識とは、この身体を私のものと考えている思い込みのことです。元来、この自我意識はなかったわけですから、これを無我と表現しています。無我の境地という言葉がありますが、これは無我の境地になるという意味ではなく、元々無我の境地であった事実に気付くという意味です。それを体感するのが坐禅です。

身心脱落

しんじんだつらく

無我の境地に辿り着く瞬間

道元禅師が悟りを開いたときの言葉である。師である天童如浄禅師が「心塵脱落」すなわち煩悩(心の塵)からの解脱とした境地を一歩進め、道元禅師は心の煩悩だけでなく身体においても一切の執着を離れ、身も心も自由で清々しい境地に至ったことを表現したものである。「仏道をならうとは自己をならうなり、自己をならうとは自己を忘れることなり」


山川草木悉有仏性

さんせんそうもくしつうぶっしょう

自分と自然が一体であることに気付くと、全ての命が輝き始める

「峯の色 谷の響きも 皆ながら わが釈迦牟尼の 声と姿と」という道元禅師の歌にもあるように、執着を離れ、自己というものを忘れると、私が生きているのではなく、大いなる命が私を生かしていること、しかも私だけでなく他人も猫も鳥も花も石も、すべての存在を生かしていることに気付く。すると、山川草木すべてに仏の命が宿り、光り輝き始める。そうして自分というものに執着しなくなり、視点の大転換が起こると、過去の後悔も将来の心配もなくなり、生死も関係なくなって、悟りの世界に到達するという意味である。「ただわが身も心もはなちわすれて、仏のいへ(家)になげいれて、仏のかたより行はれて、これにしたがいゆくとき、ちからもいれず、こころもついやさずして、生死をはなれ、仏となる」(正法眼蔵)。この境地に達することが仏法における最終解脱である。